岡山県井原市岩倉町340-1
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~思い出~ 細身の体、ムチのようにしなる腕から繰り出す打者の胸元をえぐるシュートが決め球(えぐりすぎて落合にはしょっちゅう睨まれてたなww)。当時まだ「セットアッパー」という言葉も定着していなかった92年に、江尻亮監督に見いだされ「盛田&佐々木のダブルストッパー」としてブレイク、この年に最優秀防御率のタイトルを獲得する。 92年は「中山事件」でローテーションの柱を失い、シーズン早々に須藤監督は休養を表明するという波乱のシーズンでした。エースの野村も不調、そんな中、盛田は開幕から先発で無傷の5勝をあげます。まさに孤軍奮闘です。しかし休養の須藤監督から引き継いだ江尻監督は、その盛田を先発から中継ぎへ配置換え。当時のストッパーはまだ「大魔神」と呼ばれる前の佐々木でした。「佐々木につなげば勝てる」という信念による大英断でした。この配置換えは功を奏し、「大洋戦は7回までにリードをしていないと負ける」と多くの解説者が口をそろえて言うほど、盛田ー佐々木の継投は盤石でした。 しかし!問題は6回まで投げれるピッチャーがいないということでした。当時の先発陣を振り返ってみると・・・斉藤明夫・遠藤(この二人はおじいちゃんだからしょうがない)・不調の野村・岡本透・田辺・有働・大門・・・今さらですが、寒気がするローテーションです。しかし、終盤の強さは見ていても面白くて、この頃のホエールズにすっかり魅了されてしまいました。 97年オフに中根とのトレードで近鉄に移籍しますが、翌年の98年に横浜は優勝・日本一に輝きます。歓喜の輪の中に盛田がいないのが、凄く寂しかったです。その後脳腫瘍を発症し、長期の闘病生活をおくる事になります。日常生活も危ぶまれるという見通しの中、盛田は見事に復活し、1軍のマウンドに立ちます。2001年の日本シリーズで登板している盛田の姿を見て、涙が出ました。本当に良かった! 僕の思い入れの強い選手です。本当にお疲れ様でした!
2015-02-03 16:05:35
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